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読書の記録です。

「心にナイフをしのばせて」

奥野修司/文芸春秋

1969年春、入学して間もない男子生徒が、同級生に首を切り落とされ殺害された。被害者の母は、事件から1年半をほとんど布団の中で過ごし、事件を含めたすべての記憶を失っていた。そして犯人はいま、大きな事務所を経営する弁護士になっていたのである。

関西の方はご存知かと思いますが、「たかじんのそこまで言って委員会」という番組内で宮崎哲弥さんが、「ぜひ読んで欲しい」と言っておられた本です。雑誌で本の存在は知っていて、読むべきか読まざるべきか悩んでいたのですが、宮崎さんの推薦を聞いて読もうと決心した次第です。
主に、被害者の妹みゆきさんへのインタビューですが、母親もみゆきさんも、あまりのショックに事件当時の記憶が混乱し、確かなことが言えないという状態。

「そのときちらっと見た兄は、まるでミイラのように包帯で覆われていた。そして手も、足も・・・・・・。
 わたしは兄の遺体を正視できず、思わず目を背けた。
 父はそんな兄の遺体を確認したのだ。全身を包帯で包まなければならないほど傷ついた遺体を、父は自分の目で確認したんだと思うと、わなわなと震えてきた。」

家族構成は私と同じだけに、衝撃的でした。一番泣けたのは、お父さんでした。

「父はお金を遺さなかったが、お金じゃ買えない大切なものを遺してくれた。」

と、子供に言われる親ってすごい、と思います。きっと、このような事件さえ起きなければ、ごくごく普通の家庭として過ごされたのだろうと思うと、いたたまれない気持ちになりました。
これはあくまで被害者側からの視点で、物事を冷静に見る上で、加害者側の詳しいインタビューは必要だと思います。しかし、それも許さない少年法は、物事の議論すら許さないと言うことなのでしょうか。数少ない資料の中で、著者は少年の『精神鑑定書』を読みます。

「これを読むかぎり、少なくとも級友を殺害して悔いているとは思えない。反省や謝罪を意味する言葉はどこにもないのだ。むしろ「絶望的になるまい」と自らを励まし、動機を「過去の人間」に結びつけ、さらに「一般に認められれば勝利かもしれないが」と、自分の行動を正当化しようとしているかのようである。そのうえで、少年Aは調査官に、「自分は将来加賀美君の分とあわせて二人分働く」と語ったという。
 事件後、調査官は少年Aの父親に、息子がなぜこうした犯行におよんだのかとたずねた。すると「あのこと自体は見えない特殊な力で起きたことだ。祖父が金融業をやっていたのでその祟り」だと述べ、親としての責任を認めなかった。」

事件の背景には、少年Aに対するからかい(本人はいじめだと思っていたようだが)があったとも考えられるようですが、当然のことながら、人を殺していい理由なんてありません。
宮崎さんによれば、現在少年院で行われている「更正」とは、「過去に犯した罪は、もういいから、忘れてしまいなさい。過去を流して、あなたの新しい人生を歩みなさい」という方針のもとに行われているそうです。なるほど、過去を清算し弁護士として地元の名士になった少年Aは、成功例だと言えるでしょう。しかし、もし、ここに担当者がいたなら私は胸倉を掴んで言ってやりたい。これを更正に成功した、とあなたは胸を張って言えるのか。30年経っても遺族に詫びのひとつも入れない人間を、更正したと言えるのか。
ひとつ少年犯罪が起きるたびに、被害者の家族だけではなく、彼らに関わる多くの人がその犯罪に縛られる。何が彼らを救うのか、わかりません。けれど、少なくとも加害者の少年の更生が、遺族にとって何の救いにも、あるいは癒しにすらもなっていないということは理解できます。更正とは、誰にとっての救済なのか。犯罪が起きた時に、救われるべきは被害者ではないのか。


「三十余年が経過しても、今も被害者はあの事件を引きずっていた。おそらく生涯にわたって続くだろう。歳月は遺族たちを癒さない。そのことを私たちは肝に銘じておくべきだと思う。」



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