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読書の記録です。

「ツリーハウス」

角田光代/文藝春秋

祖父が死んだ夏のある日、孫の良嗣は、初めて家族のルーツに興味を持った。出入り自由の寄り合い所帯、親戚もいなければ、墓の在り処もわからない。祖父母が出会ったという満州へ、祖母とひきこもりの叔父を連れ、旅に出る。

自分のルーツ、調べたことありますか?(そういうテレビ番組もあったような)
私は話で曽祖父の話を聞いたくらいで(しかもギャンブルで財産を使い果たしたとか、良くない話。笑。)、自分から調べたことはありません。ご先祖様には興味なしでしたが、例えば祖父母がどのように結婚したのか、どっちがアプローチしたのか・・・とか、お年頃には色々聞いていたと思います。父方・母方共に(ちなみに両親も)「この人と結婚したのは間違いだった!」「騙された!」とのこと。まあ、照れなのか、本気なのかはわかりませんが・・・。昔の人って根気があるのか我慢強いのか、多少イヤなことがあっても、即離婚!という決断をされない印象があります。情が移るってこういうことなのかなあと思いました。
この物語の主人公・良嗣の祖父母もそんな感じだったのかなと思います。その日を生きていくのに必死で、恋愛なんてする気持ちの余裕がないまま、拠り所がなくて心細くて寄り添っていたら子供ができて、ずっと一緒にいたら情も移って、もう好きとか嫌いとかじゃない関係になってて、それが家族の成り立ちだったのかしらーと思いました。舞台はだんだん、両親の話になって(文江さんが好きでした)、そして孫の代に移ります。今は食堂を営んでいる父親が、漫画で生計を立てていこうと思っていたとか、ニートの叔父が昔は教師で、生徒と駆け落ち未遂をした(これは切ない・・・。叔父さんがアホやねんけど。)過去があったり、お父さん世代も色々やらかしてます。大人のこういう話は、非常に安心感を感じます。・・・私も独立せにゃならんのですが・・・。
祖父母は2人きりだけど、3人兄弟で、良嗣も3人兄妹。妹は子供を産んで、家族がどんどん広がっていっている。ルーツも大事やけど、それよりも、続いていっていることが素晴らしいことだと思う。最後に、昔と今では「逃げる」の意味合いが違うっていう話があったんですけど、まさにその通りで、徴兵や戦争から逃げるっていうのは、「逃げ」ではなく生き残るための「戦い」であったと思います。だから、おじいちゃんも、おばあちゃんも、逃げてないんだよ、生きるために戦ったんだよって言っても良かったと思う。後ろめたく思う必要なんてないのに。人として当然のことを後ろめたく思うような風潮って、戦時中は異常だったんだなと思いました。
家族であることに資格なんていらないし、誰かの許しを得る必要もない。立派な家族図だって必要ない。腹が立つこともあるし、迷惑をかけたり、かけられたり。でも、引力で引き寄せられるように、顔を合わせてしまう。無関係ではいられない。家族って、呪いや幸せの象徴が混ざり合って、複雑怪奇な代物だなあと思いました。
祖父母が建てた翡翠飯店が、これから先も藤代家の拠り所になりますように。
本当の持ち主が現れたら、遺言に従って返さないといけないもんね。笑。


「闘うばっかりがえらいんじゃない。」


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